「聖ユスティン・ポポヴィッチは言う。――神学理論というものは、その理論の〈体験〉をまず第一に必要としている。それ無しの単なる理論は、偽装した無知蒙昧に他ならない。」
ある隠遁士がこう言った。その瞬間、わが心に光が射し、私は自分の愚かさの真実を見た。上滑りしたぺらぺらの貼り付け知識。
たとい教義の詳細を論じ、他人を説得するだけの論証力があっても、その教義がわが血となり肉となっていないのなら、それは単なる理論に過ぎない。
創世記および進化について語る人々の多くがこの原則に注意を払っていないのではないかと私は案じている。中にはプロテスタント原理主義を論駁しようと躍起になる余りに反動が出過ぎ、そういった人々は、創世記の聖句を「文字通り」に解釈しようとするいかなる試みに対してもこれを極度に反駁してはばからない。
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某正教修道院で一人の修道士の方と話をしました。この方は私の霊的旅路を評し、一言、「真理というのはね、単純なんだよ。単純。」とおっしゃいました。どういう意味だろうと思案していたところ、「あなたが正教に導かれるようになったきっかけ自体は、煩雑な知的探求というよりは、むしろきわめてシンプルな諸出来事を通してであった」という答えが返ってきました。
「しかし、わたしたちの国籍は天にある。そこから、救主、主イエス・キリストのこられるのを、わたしたちは待ち望んでいる。」フィリピ3章20節
私たちは皆、祈る際に東の方角(toward the East)を向いていますが、そうすることによって実は自分たちが古の故郷を再び憧憬し欣求しているということを自覚している人はわずかです。古の故郷――、そう、エデンを臨む「東」に植えられしパラダイスのことです。