巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

福音主義クリスチャンと聖母マリア(Θεοτόκος)(by ロバート・アラカキ)【後篇】

 【前篇】からの続きです。

 出典

 

目次

  • マリアの処女性——聖書的立証
  • マリアの永続的処女性—神学的角度
  • 祈りのパートナーとしてのマリア
  • プロテスタンティズムの心の傷跡(Protestantism’s Emotional Scars)
  • 正教の方へ漕ぎ出す
  • 「聖書のみ(Sola Scriptura)」 vs. 「聖伝(Holy Tradition)」
  • 共に私たちは救われ、一人では滅びる(Together We are Saved, Alone We are Lost )
  • 文献(Bibliography)
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福音主義クリスチャンと聖母マリア(Θεοτόκος)(by ロバート・アラカキ)【前篇】

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出典

 

目次

  • 福音主義クリスチャンにとっての最大のハードル
  • 聖書の中のマリア
  • マリア——全ての福音主義者にとっての母
  • 典礼の中におけるマリア
  • 全地公会議(The Ecumenical Councils)
  • マリアとイコン
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Community—無くてはならない要素(by トリフォン修道院長)

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出典

 

Abbot Tryphon, Community: The Essential Element(全訳)

 

キリスト教というのは、共同的(communal)信仰であり、それは信仰者たちに、他者との積極的関わり合いを求めてきます。

 

教会の礼拝は共同的です。そして救いそれ自体、公同的行為であり、他者との交わりを要求してきます。人は真空・孤立状態の中で救われるのではなく、教会の公同的いのちの一部として救われます。

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懐疑に苦しむ魂への励まし(byトリフォン修道院長)

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Abbot Tryphon, Doubt, Orthodox Christianity, 2016

 

以前、ある女性に会ったことがあります。この女性はかつて一度も自分の信仰を疑ったことがなく、教会の諸教理の内どれ一つとして一瞬たりとも疑った経験がないと主張していました。

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表層からは計り知れない人間のこころの深み、呻きと神の憐れみ

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ある時、敬虔な婦人が「Aさんは結局、教会に来られませんでしたね。」と言い、それに続けて、人が神を求めることの大切さを語られたことがありました。

 

神を求めることの大切さという点で私はご婦人に全く同意したものの、それが、教会に足を運ばなかったAさんのあり方となにかしら関連づけられ語られたことに少々戸惑いを覚えました。

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はじめての告解

japanesebiblewoman.hatenadiary.com

 

今朝、はじめての告解に行ってきました。何にも書かず、何も持たず、何も準備せず、ただそのままで神父様の所に行きました。

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告解を明日にひかえて

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明日、生まれてはじめて告解(εξομολόγηση, Confessio)に行きます。告解というのは、神父様の前で自分の犯してきた具体的な罪や過ちを告白する行為のことをいいます。

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