巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

他者理解/相互理解としてのディスペンセーション主義考究シリーズ⑮ 聖書の「字義的」解釈とは何でしょうか?【前篇】(by ヴェルン・ポイスレス/ウェストミンスター神学大、新約学)

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Vern Sheridan Poythress, Understanding Dispensationalists

Westminster Theological Seminary, PA, summer, 1986

(目次はココです。)

 

「字義的」解釈とは何でしょうか?(WHAT IS “LITERAL” INTERPRETATION?)

 

それでは「字義的」聖書解釈についてご一緒に省察していきましょう。ある意味、ほとんど全ての問題が、この問いの下に埋(うず)もれていると言っても過言ではないと思います。

 

私たちはこれまで、「字義性」に対するダービーやスコフィールドのアプローチを概観してきましたが、もうすでに、こういった問題の存在に気づかれた方もおられると思います。

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あらゆる苦悩を喜びで和らげてくださる主を讃えます(ピューリタンの祈り)

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偉大なるみいつの神、

私が享受しているあらゆる祝福、

望んでいるすべてのものの創始者であられる主よ。

 

汝は、私に次のことを教えてくださいました。

悪による現在の経験も、

昔犯した数々の罪の記憶も、

友からの戒めも、

 

御霊の力の働きにより

汝がご恩寵を顕し、

罪の中にいる死人を蘇生させてくださらない限り、

罪びとの心を動かし得ないということを。

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川の慰め――エミー・カーマイケルの信仰詩

 

時が時を数えつつ、二年という歳月が過ぎ、

人生の流れを共にした人が、

すべてを変える海の方へ 

彼女の祖国へと急ぎながら

去っていった。

 

彼女は今も、私にとっての彼女自身でいてくれるのかしら?

それは可能?

 

私の兄弟、私はあなたにとって、以前のままでしょうか。

それとも私は別の人に変ってしまったのでしょうか。

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他者理解/相互理解としてのディスペンセーション主義考究シリーズ⑭ 「1コリント15:52の終わりのラッパについて」(by ヴェルン・ポイスレス/ウェストミンスター神学大、新約学)

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Vern Sheridan Poythress, Understanding Dispensationalists

Westminster Theological Seminary, PA, summer, 1986

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終わりのラッパ(THE LAST TRUMPET)

 

「字義的(“literal”)」解釈原則という極めて重要な課題に取り組む前に、いくつかの問題を例証している特定聖句をご一緒に見ていきたいと思います。

 

今、念頭にあるのは、1コリント15:51-53です。これはディスペンセーション主義についての議題における、最も有益な二つの聖書箇所の一つです。なぜなら、これは根柢にある解釈学的諸原則を表面に浮かび上がらせる聖句だからです。

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他者理解/相互理解としてのディスペンセーション主義考究シリーズ⑬ ディスペンセーション主義の朋友との対話のために(by ヴェルン・ポイスレス/ウェストミンスター神学大、新約学)

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Vern Sheridan Poythress, Understanding Dispensationalists

Westminster Theological Seminary, PA, summer, 1986

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ディスペンセーション主義者との対話のために(STRATEGY FOR DIALOG WITH DISPENSATIONALISTS)

 

ディスペンセーション主義の是非をめぐって人々が議論を始めた場合、何が起こるのでしょうか。最初の小競り合いは、たいがいの場合、神学的なものです。人々は、教理問題に関し、終末の出来事に関し、クリスチャンと旧約律法の関係などに関し、互いに意見の食い違いをみます。

 

しかしそういった議論はすぐに特定の聖句に関わるものへと移行していきます。人々は釈義(exegesis;ある特定の聖句に帰する意味)のことで意見を違わせます。しかし釈義だけでは十分ではないのです

 

なぜなら、相違の本質は、解釈(hermeneutics;聖書解釈のための一般諸原則)を巡ってのものだからです。ですから、解釈学的問題に真っ正面から向き合わない限り、対話はその実をみることが少ないでしょう。

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他者理解/相互理解としてのディスペンセーション主義考究シリーズ⑫ いろいろな社会的要因(by ヴェルン・ポイスレス/ウェストミンスター神学大 新約学)

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Vern Sheridan Poythress, Understanding Dispensationalists

Westminster Theological Seminary, PA, summer, 1986

(目次はココです。)

(訳者注:この章の中の小見出しは訳者によるものです。)

 

次に、ディスペンセーション主義のグループ内に存在する心理学的・社会的諸要因について触れておきたいと思います。心理学的・社会的諸要因というのは一般に、これまで私たちがずっと慣れ親しんできた解釈体系を後にすることを困難なものにします。

 

共有された世界観や諸教理を持つどんな文化/サブカルチャーにおいても、ある程度において、結束性(粘着性)を持つ社会的要因が働いています。(参:Berger and Luckmann 1967)

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他者理解/相互理解としてのディスペンセーション主義考究シリーズ⑪ 単純な反論ではほぼ不可能(by ヴェルン・ポイスレス/ウェストミンスター神学大 新約学)

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調和

 

Vern Sheridan Poythress, Understanding Dispensationalists

Westminster Theological Seminary, PA, summer, 1986

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単純な反論ではほぼ不可能(THE NEAR IMPOSSIBILITY OF SIMPLE REFUTATIONS)

 

「とにかくディスペンセーション主義は間違っている」と考える福音主義クリスチャンがいます。しかし「なぜ/どこが」間違っているのかを示すのは決して容易なことではありません。

 

もちろん、多くの人は自分として満足する形ではその誤りを指摘できるかもしれません。しかし彼らは、ディスペンセーション主義を信奉している誰かを納得させるに足りるだけの説得力を持ってそれを示すことに苦戦しています。なぜでしょうか?

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