巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

ローマ帝国の迫害とクリスチャン殉教者の信仰【後篇】

 前篇〕からの続きです。

f:id:Kinuko:20170302024535p:plain

ディオクレティアヌス帝治下における迫害

 

さて、教会はローマ帝国による最後の大迫害に直面した。神は摂理的配慮によって、この迫害に耐え抜いた暁に教会の勝利を約束しておられたのであった。

 

ディオクレティアヌスは284年に即位した。この皇帝は、「ローマ的伝統に基づく徳目と神帝(現人神)理念に加えて3世紀のエクファントス、ディオトゲネス、さらに『ヘルメス文書』などによって展開された神寵帝理念(*秀村、前掲p76-77)」を精神的宗教立場としていた。

続きを読む

ローマ帝国の迫害とクリスチャン殉教者の信仰【前篇】

 f:id:Kinuko:20170302002603p:plain

 

(執筆者:日本基督改革派南浦和教会牧師、日本基督神学校講師 泥谷逸郎師、情報源

 

われわれの祖国日本では現在、靖国神社を国家護持しようとする動きが盛んである。この動きに多少反対を試みたものとして、考えざるをえなくなる問題は、過去における日本のキリスト教会あるいは個々のキリスト者が日本の国家の圧力に屈服した態度である。

 

大正期から昭和20年の敗戦にいたるまでの日本のキリスト教界は、国家の全体主義的、軍国主義的な圧力に抵抗すること極めて少なく、ついには、「神社は宗教ではない」という国家側の言い分をうのみにして、教会全体を偶像の前にひざまづかせてしまった。過去におけるキリスト教会は、「人に従うよりは神に従うべきである」という聖書のみことばに服従するよりは、官憲のことばに従って、教会を温存した。

 

この事実を知ったときから、ある疑問が私の頭を離れなかった。それは、教会史上の大迫害といわれるあのローマ帝国によるキリスト教迫害の折には、多くのものが背教したとはいえ、なお、数多くの聖徒たちが背教するよりは死を選んでいったのはなぜか、ということであった。この「なぜ」という問いを持ち続け、いつかは自分なりにある解答をまとめてみたいものだと考えていたのである。

続きを読む

はたして「文化」が、私たちクリスチャンのあり方を規定するのでしょうか?――初代教会クリスチャンの「文化」に対する姿勢

自ブログ「地の果てまで福音を」より再掲載

f:id:Kinuko:20170301040417p:plain

 グラディエーター(剣闘士)、3世紀、キプロス

 

先日、私は、次のような記事を書きました。

 


そして、その中で、私はみなさんに、「はたして現代文化が、みことばに対する私たちの従順を規定するのでしょうか?それともその逆でしょうか?」という問題提起をいたしました。

続きを読む

「イマージング・チャーチ・ムーブメントとは何ですか。そしてどのようにしたら私たちはその動きを識別することができるのでしょうか。」(by ジョン・マッカーサー&フィル・ジョンソン)【その4】

その3〕からの続きです。

f:id:Kinuko:20170228210720p:plain

 会話

 

イマージングと「会話(conversation)」

 

フィル・ジョンソン〔人々が各自、自分流の真理を持ちたく、しかもそういった自家製宗教に否定的な事を言ったりチャレンジしたりすることが《非寛容》であると斥けられる風潮の中で〕人々は、「だから、説教とかではなく、『会話』をしましょう」となるわけですね。

 

ジョン・マッカーサー:そうです。それがイマージング運動の人々の間にみられる現象です。彼らは言います。「これは神学じゃないんです。私たちはあなたに『教え』たりしませんし、私たちは牧師ではありません」と。

続きを読む